諏方神社についての雑記 2021/03/01 01:16 Share on Facebook Copy URL 檢舉 諏方神社についての雑記荒川区西日暮里にある「諏方神社」、言べんがない珍しい神社だ。元久二年(1206年)に豊島左衛門尉経泰が勧請し寛永十二年(1635年)社殿を現在の地に御座した。と公式HPにご由来が書いてある。源為朝公の山車が有名だったが都市開発で電柱や電線が整備され次第に祭りに出されることがなくなったようだ。今回はその諏方神社に面白い謎があったので紹介しようかと思う。宝暦5年(1755年)~弘化3年(1846年)に吉文字屋らにより製作された江戸切絵図で同地を調べると違う名前の神社が出てくるのだ。「大八大明神」文化・文政期(1804年から1829年、化政文化の時期)に出版された『新編武蔵風土記稿』には諏方神社として名前が出てくる。ではどこから「大八大明神」が登場したのか更に大八大明神とは何者なのか推測していきたいと思う。最初に結論からいうと「元々は御嶽山信仰の場だったのでは?」というのが自分の中の推測に近い推測だ。なぜそう思うかと言うと諏方神社には御嶽山大神・八海山大神・三笠山大神・三宝荒神社・三峰神社といった末社が祀られており山岳信仰色がかなり強い(もしかしたらお諏方さん系はもともとそうなのかもしれないけど)。その八海山大神からとって大八大明神ではないかと考えられる。八海山尊神社の公式をみると南北朝時代中期に信仰が盛んになったようだ。では、南北朝ごろに豊島氏と信州の関係性はあるのか?調べてみると南北朝時代に豊島景村という人物につながりました。鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児・時行が挙兵して鎌倉を奪還する時に挙兵した人物です。反撃を受け鎌倉を奪還された時行は景村の館にかくまわれたというエピソードがあります。北条時行といえば今(2021年)週刊少年ジャンプでやっている「逃げ上手な若君」、その補佐役である諏方頼重。事実かはさて置き、もしかしたら豊島氏流で諏方家とのつながりが強い傍流か支流が北条or南朝方に与した可能性は十分あります。そしてその関係で諏方神社が建てられたのかもしれません。あくまでも全て推測ですが。