江戸と縄文を結ぶ産業②

江戸と縄文を結ぶ産業②

前回、神社名の由来が白色顔料である「胡粉」の可能性が高い話をしました。

今回はどこで原料を手に入れたのかの話題です。


胡粉の原料はイタボガキという牡蠣の一種から作られます。イタボガキを天日干し風化させる事で塩分を抜きます。

そのイタボガキの貝殻は上野台地の麓にある耕作地から取れました。『新説武蔵風土記稿』によると

「このあたりの土の中には牡蠣殻がたくさんある、昔は丘の様に堆積してた。遠くからみたら雪山のようだった。享保の頃は牡蠣殻を掘って馬の背に乗せ、毎日浅草に運んで胡粉の原料にした。」

と記されています。
古地図にも「カキガラ」や、「貝塚」などの地名が見受けられるそうです。


では何故こんなに大量の牡蠣殻が取れるのか?



答えは縄文時代にありました。

約4,000年前の上野台地では漁労が盛んでした。貝を採る場所や加工する場所、廃棄する場所を土木工事で道や木杭を打って作りました。

そのような生業が100年以上続いて堆積したのが中里遺跡の貝塚です。
www.city.kita.tokyo.jp/hakubutsukan/re..


この貝塚は厚さ3mにもなる巨大貝塚で今は国指定になっています。


江戸時代の伝統工芸が縄文人が残した資源によって支えられている、それは時代を超えた人と人との交流の様に見えてきますね。

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